2025年10月12日放送「ザ・ノンフィクション」にて取り上げられる、大森昌也さん。
山奥で子供6人と暮らしていた大森昌也さんは、どのような人物なのでしょうか?
こちらの記事では、大森昌也さんの経歴やプロフィール、家族についてなど、詳しく深掘りしていきたいと思います。
大森昌也さんについて気になる方は、ぜひチェックしてみてください!
大森昌也のプロフィール!

- 名前:大森昌也
- 生年月日:1942年3月生まれ
- 年齢:74歳の時に逝去
大森昌也さんは、癌を患い、2016年に息を引き取りました。
享年74歳。
6人の子供を、途中から男手一つで育て上げた立派な父親ですね。
厳しい一面も
立派な父親としての責務を果たした大森昌也さん。
しかしながら、一度怒ると手がつけられず、手当たり次第物を投げるような激しい一面も。
子供たちは、父親の機嫌を伺いながら生活していた部分もあったそうです。
ただ、それだけではなく、気前が良かったり不器用な中にも優しさがあったりと、『THE・昭和の男』だったのかもしれないですね。
大森昌也さんの持つ「勉強より労働」という信念により、子供たちは農作業や家事で学校に行けない日も多かったそうです。
戦後を生き抜いた大森昌也さんならではの信念だったのかもしれないですね。
あ~す農場(大森昌也の実家)はどこ?

大森昌也さんの実家である「あ〜す農場」は、
〒669-5238 兵庫県朝来市和田山町朝日767−2
にありました。
とても山奥であるのが分かりますね。
ここでは、自給自足生活や農作業の研修も行っており、大森昌也さんの家族以外の方も研修で訪れ、生活を共にしていたそうです。
実際に「あ〜す農場」の暮らしに感動した女性が研修に訪れ、のちに大森昌也さんの次男である、げんさんと結婚するという素敵なエピソードも。
山奥で孤立することなく、他者を受け入れて生活していたんですね。
大森昌也の経歴
それでは、大森昌也さんの気になる経歴をチェックしていきましょう。
- 1942年:3月生まれ
- 1945年:3歳の頃、満州で「第二次世界大戦」敗戦を迎える
- 1961年:大学へ進学し学生運動に参加する
- 1965年:社会人になる 兵庫県西宮市在住
- 1970年代?:兵庫県朝来市の山奥へ移住
- 2016年:癌を患い逝去
詳しく深掘りしていきたいと思います。
壮絶な幼少期
1942年、第二次世界大戦真っ只中で生まれた大森昌也さん。
詳しい経緯は調査中ですが、3歳のとき疎開先の満州敗戦を迎えたそうです。
壮絶な幼少期を過ごしていたのが、容易に想像できますね。
当時は、ろくな食糧も与えられてこなかったような状況下なので、その時の記憶や想いで、自給自足生活を子供たちに教え込んだという背景もあるのではないでしょうか。
自分で作り、自分が食べる分だけ生み出せれば、生きていくことはできますからね。
学生運動に励んだ大学時代
そして日本に戻り、苦しい時代を生き抜いた大森昌也さん。
大学進学後は、学生運動に身を投じる日々だったようです。
学生運動が最も盛んだったのが、1960年〜1970年頃になるので、ちょうど大森昌也さんが大学生の頃と重なります。
学生たちが主体となって、社会や政治への問題を定義する時代だったので、現代の日本に対して、大森昌也さんもさまざまな思いを抱えていたのではないでしょうか。
社会人としての暮らし
大学卒業後は、大森昌也さんも就職し働いていたようです。
会社員時代に、奥さんと出会い結婚し、長男のケンタさん、次男のげんさんを授かります。
その頃は、兵庫県西宮市に住んでたが、次男・げんさんが4歳の頃に山奥への移住生活が始まりました。
癌を発病しこの世を去る
山奥で自給自足生活を送りながら、6人の子供達に囲まれる生活を送っていた大森昌也さん。
しかしながら、大森昌也さんは癌を発病してしまいます。
病院でしっかり治療を受けるも、2016年の74歳の時に入院先の緩和ケア病棟で、息を引き取りました。
順風満帆とは言えない道のりだったかもしれませんが、大森昌也さんの信念が通った人生のように感じますね。
大森昌也の家族構成
大森昌也さんの家族構成について調査していきます。
- 元妻(離婚済)
- 長男・ケンタ
- 次男・げん
- 三男・ユキト
- 長女・ちえ
- 双子の次女・れいとあい
6人の子供を授かり、山奥での自給自足生活ながら大家族を築いていたのですね。
2016年の大森昌也さんの死をきっかけに、実家である「あーす農場」からみんな出ていき、当時のような自給自足生活をしている人はいないそうですが、次男・げんさんは地元には残り、家族5人で山暮らしライフを楽しんでいるそう。
大森昌也さんの意思は、形を変えて次男・げんさんに受け継がれているんですね。
妻との離婚について
6人の子供を共に育てていた奥さんは、長男・ケンタさんが15歳の時に、家を出ていってしまったそうです。
子供を残して家を出て、そのまま離婚という形に。
奥さんがどういう想いで家族を残し、山奥の家を出ていったかはわかりませんが、自給自足での生活で子供6人を育てるのは相当の苦労があったのではないでしょうか。
過去に、テレビのインタビューで元奥さんが当時の思いを語っていたシーンがありましたが、
ギリギリの状態だった
と話していました。

追い込まれた末に離婚はしてしまいましたが、大森昌也さんが入院していた時、「最後に元奥さんに会いたい」と気持ちを吐露したそうで、再会することへ反対する子供達もいましたが、最終的に大森昌也さんは元奥さんに会うことが出来ました。
その時は、お互いを労い、感謝を伝えあったみたいです。
長男・ケンタについて
15歳で母親が家を出ていってしまい、離婚となったので、高校進学を諦めざるを得なかったようです。
その後は長男として一家を支える頼もしい存在となり、結婚し子供も授かりました。
実家である「あ〜す農場」で暮らしていましたが、父親・大森昌也さんの死後は、奥様のご実家がある鳥取に引越し、海のそばでの暮らしを始めたそうです。
次男・げんについて

山の中での暮らしが気に入っていた次男・げんさんは、実家のあ~す農場へ残ります。
そして、あ〜す農場の研修に来ていた奥様に出会い、そこで仲を深め、結婚したそうです。
現在はあ〜す農場は離れていますが、山で自給自足生活は続けており、農作業やパンを焼き、家族で食べきれない分を販売して生計を立てているそうです。
父親である大森昌也さんは、学校より家の農作業などを優先させることを子供達強いていた面がありましたが、次男・げんさんのお子さんたちは、しっかり学校へ通っています。
「子どもたちには、ここでの暮らしを生きる知恵として持っていてほしい。そして自分の好きなことや、やりたいことが見つかったら、それを思いっきりすればいい」
という考えがあるそうで、とても理解のある素敵な父親なのがわかりますね。
三男・ユキトについて
三男・ユキトさんは、都会での暮らしへの憧れもあり、山奥の実家を出て、近所の大規模農家でのアルバイトをしていたそうです。
2003年頃には、北海道のシャケ工場で住み込みのアルバイトなど、転々としながら広い世界を楽しんでいたのかもしれませんね。
その後上京し、俳優を目指して芝居に打ち込む日々でしたが、信頼していた人に裏切られてしまい、地元に戻ったそうです。
都会では、平気で人を騙すような人もいますので、山育ちの純粋さ残るユキトさんの優しさに漬け込まれてしまったのかもしれないですね。
長女・ちえについて
長女のちえさんは、当時は家に残り家事を行うしっかりものだったそうです。
2008年頃には、南米を旅するなどアクティブな一面も持っています。
現在は、結婚していて、お子さんにも恵まれているそうです。
双子の次女・れいとあい
双子の次女・れいさんとあいさんは、大阪へ出て社会人として働き始めるますが、父親の教えの生活の中で、学校に行っていなかったのもあり、社会人としてとても苦労していたそうです。
しかしながら、そこで諦めず必死に働いていたようで、山で培った忍耐力が発揮されたようです。
大森昌也の百姓のような自給自足生活のきっかけ
大森昌也さんが自給自足生活を始めたきっかけは、
長男・ケンタさんがアレルギー体質だった為
のようです。
アレルギー反応が起きないよう食材や素材に気をつけるために、山奥で自給自足生活をスタート。
大森昌也さんの家族想いな面が垣間見れますね。
幼少期に、戦後で苦労した記憶や思いから、自給自足できれば息抜けるというメッセージを子供たちに伝えたかったのもあるのではないのかなと思います。
大森昌也経歴まとめ
以上、『大森昌也経歴プロフィール!家族構成や百姓のような自給自足生活について調査!』と題して、大森昌也さんの生涯についてまとめさせていただきました。
究極の暮らしの中にも、優しさや知恵が溢れていて、今の時代に必要な部分も多くあるように感じました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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